歴史探訪(白鳥事件と柴田家、樅の木と原田家、ほか)
縄文時代にまでさかのぼる古代からの遺物が、数多く出土する柴田の町には、 私たちがまだ知らない、さまざまな歴史や、それにまつわる古い言い伝えなどが、たくさん埋もれているはずだ。
誉れ高き心に触れる柴田への旅
白鳥事件と柴田家
柴田や刈田地方では、藩政時代から白鳥信仰を伝承する白鳥伝説数多くある。そんな人々の思いは、「伊達治家記録」や「奥羽観蹟聞老志」などでも垣間見ることができる。神の使者として白鳥は多くの人々の信仰を集めてきた。
明治元年(1868)、その白鳥をめぐって、戊辰の役後、進駐してきた官軍兵士と柴田家中との間で起きた事件は、柴田家の運命を大きく変えた「白鳥事件」 として今もなお人々に語り継がれている。この事件の発端は、仙台藩降伏後、領内において官軍兵士が信仰の対象である白鳥を捕殺したことに端を発している。 その場に居合わせた柴田家中4名の内の一人が白鳥を守ろうと兵士に向かって発砲。その後この事件は仙台鎮撫使の知るところとなり事件に関与した家中たちは 処刑。事件の責任を取って柴田家14代当主意広も切腹した。事件後、柴田家臣の多くが、苦悩の選択のなか、現在の北海道伊達市に移住を決定。新天地での新 しいあゆみを始めた。
樅の木と原田家
今 から約340年前(万治3年)仙台藩62万石3代目藩主、伊達綱宗が不行跡を理由に幕府から隠居を命じられ、三歳の亀千代が家督を相続したことに端を発す る、のちに伊達騒動とも呼ばれる寛文事件。その寛文事件をテーマにした山本周五郎原作のNHK大河ドラマ「樅ノ木は残った」に登場する原田甲斐は、今まで の逆臣説から一転、伊達政宗の子、兵部を利用して仙台藩のとりつぶしを狙った酒井忠清の陰謀を未然に防ぎ、伊達家の安泰を守った忠義の人物という新見解に よって描かれており、これまでの定説を覆す、新たな甲斐として注目を集めた。寛文11年、酒井邸での「群境の件尋問」の後、流血騒動となり、甲斐は斬死、 一族の男は切腹、女はお預け、多くの家中は帰農となり、悲哀の運命をたどった。ドラマがテレビ放映されると、船岡城址に残るゆかりの樅の木を一目見よう と、多くの人が柴田町を訪れ、歴史の露と消えた甲斐とその一族、家中にそっと思いを寄せるのであった。
胎臓界と金剛界曼陀羅
昭和四十四年四月十八日、宮城県指定の有形文化財に指定された絹本着色曼陀羅の胎臓界と金剛界は、船迫にある大光院所蔵の秘宝である。
曼 陀羅とは、仏教語で、本質を有するものの意。大光院所蔵の胎臓界曼陀羅と金剛界曼陀羅のほかにも四種曼陀羅などがある。胎臓界は、大日如来の理性を表し、 金剛界は、大日如来を主尊とする9つの曼陀羅を一図に収めたもの。胎臓界曼陀羅に対して、西側に掛けて用いられる両界曼陀羅の一つである。
極彩色に彩られた神々しいこの2幅の曼陀羅を管理する大光院は、正式には松光院神宮司大光院といい、郡内における真言宗派の本寺として、藩政時代には、末寺九力寺を有した由緒ある名刹で、今もなおその荘厳なるたたずまいの中に昔の面影を偲ばせている。